大東会館 過去の活動の記録

大東会館のホームページ上において行つてゐた案内・告知を掲載

武士道研究会

村上一郎高橋和巳
藤本隆之氏 午後六時四十五分から七時四十五分


 村上一郎高橋和巳といふ取り合はせは、奇異に感ずる向きもあらう。確かにそれほど両者は交錯しなかったが、ここに三島由紀夫といふ補助線を引くと、あながちさう不思議な取り合はせともいへない。
 六十年安保や七十年の学生騒乱といへば隔世の感あって、私(昭和三七年生)もまたリアルタイムでは知る由もない。遅れて来た者の一人に過ぎないのだが、なぜか二十歳前後のころ両者に引き込まれた。
 村上一郎には、「武士道」といふ言葉も似つかはしい気もするが、高橋和巳となると疑問をもたれる方もゐよう。ただ自裁と病死の違ひはあっても生前の生き方を顧みた時、両者とも「サムラヒ」に思へるのである(歳も性格も違ふが)。
 今回、「武士道」とはほど遠い私ではあるが、厖大で重大な仕事を残された両者に取り組むことで、自身を再び振起させたいと思ふ。


武士道の本流―乃木将軍・松陰先生・素行先生・大楠公

大山晋吾氏 午後七時五十分から八時半


 乃木将軍は、日露戦争時、水師営で敗軍ステッセル将軍らに勲章の佩用と帯剣を許して会見に臨まれた。ここに将軍の昨日の敵は今日の友、勝って驕らず敗れた将兵へも礼を以って遇するといふ武士道の精神を窺ふことが出来よう。乃木将軍は、明治天皇の崩
御に際して殉死され、自らの身をもって武士道を示された。将軍はまた、山鹿素行先生に傾倒し、その墓前に素行先生を祭る文を奏上、時の東宮殿下に素行先生の『中朝事実』を捧げられた程である。
 この乃木将軍の師、吉田松陰先生も幼きより山鹿流兵学を学び、十一歳で藩主を前に素行先生の『武教全書』を講ぜられ、素行先生を先師と仰がれてゐた。
 では、その素行先生とは、一体如何なる方であり、その拠り所とされたものは何であったのか。この度は武士道の本流と題し、右武人・先哲達を通して、その本流を遡ってみたい。


■日 時 十一月十日(月)午後六時半より 
■会 場 大東会館 港区北青山三の三の二七
■幹 事 藤本隆之/福永武/細見祐介/大山晋吾
■輪 読 谷秦山先生「炳丹録ノ序」
■会 費 千円(懇親会費、但し学生は無料)