大東会館 過去の活動の記録

大東会館のホームページ上において行つてゐた案内・告知を掲載

武士道研究会 第十五回例会【楠公祭】の御案内

世間では、新型(豚)インフルエンザで大騒ぎをしてゐますが、実際、危険度が六に上がる寸前まで来てをります。そこで、次回武士道研究会は、五月二十九日(金)に延期する事に決しました。
毒性が弱いといふ事ですが、三日前の数では、ほぼ四十人に一人が死んでゐる事になります(世界の感染者二千人の内、約五十人が死亡してゐます)。
まさに、素行先生の言はれる通り「変の至るや知るべからず、あに怠るベけんや」で、これから何が起こつて来るやも知れません。油断は禁物です。
とは言へ、段々と気温が上がり、また梅雨の時期に向かひ湿度が高くなると、終息に向かふ事でせう。そこで、楠公祭は本来五月二十五日なのですが、次回例会日を月末にまで伸ばし少し様子を見てみます。
武士道とは死ぬこととみつけたりですが、つまらぬ事で死んでは本末転倒。まさに御祖先より御祖の神様より戴いたこの命、大切に使ふことこそ、我々の使命といふもので、これぞといふ時まで全うしなければならぬと思ふ次第です。
開催日の告知が大変遅れ、ご迷惑をお掛け致しました事を衷心よりお詫び申し上げます。


「武士道研究会」第十五回例会【楠公祭】の御案内 幹事・大山晋吾
太平記』には、湊川楠公と相共に討死された弟君正季公の最期の言葉が「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトゾ存ジ候ヘ」と記されてゐる。
これ、世に言ふ「七生報国」の典拠であるが、楠公室町時代に逆賊として長く歴史の片隅に追ひやられてゐた。それを史上に特筆されたのが『大日本史』編纂を志された水戸義公であり、義公は「嗚呼、忠臣楠子之墓」の碑を湊川に建て、楠公を天下第一の忠臣と称へられた。
幕末に至り楠公忠死の精神は盛んに顕彰され、多くの志士達が楠公を敬仰した。吉田松陰先生も『留魂録』に「七たびも生かへりつゝ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや」と記され、七生報国楠公の魂が松陰先生の胸に蘇られた事が窺へる。
大東亜戦争末期に創案された人間魚雷には、楠公の旗印「菊水」が描かれ、またロケット特攻の桜花隊を人々は「非理法権天」の旗(楠公の旗印)を振つて見送られた。桜花隊の緒方襄命は、出撃の三十分前、手帳にかう記されてゐる。「死するともなほ死するとも吾が魂よ永久にとどまり御国まもらせ」と。七たび八たび生まれ変はつてこの国をお守り申し上げたいと言ふのである。まさに、楠公の精神が六百年の歴史の壁を乗り越え、民族の危機に際して蘇り来たつたのである。
いや、この精神は戦後にも脈々と流れ来たつてゐる。かの占領憲法に身をぶつけて自刃された三島由紀夫氏が、その折り額に巻かれてゐた鉢巻には「七生報国」と記されてゐた。まさに此の時、三島氏の胸裏に存したものは大楠公七生報国の精神であつた。
ここに志を同じうする人々集ひて、楠公の精神を仰ぎ、楠公祭を斎行致し度く、ご案内申し上げる次第である。


楠公の智略と忠死の精神 発表・大山晋吾氏
室町時代、それは極論すれば人々の利害損得によつて世の中が動いてゐた時代である。それを代表する者が足利高氏であらう。また時代に抗して、後醍醐天皇を初め、楠公南朝の忠臣方は、義のために生き、義のために散つてゆかれた。この度は楠子一族等の旧跡を訪ね、その忠死の精神を振り返り、後の世までも動かして已まぬ七生報国の精神が、単なる観念ではなく、楠子をはじめ南朝忠臣方の忠死の歴史に裏付けられたものである事を発表させて戴きたい。


■日 時 5月29日(金)午後7時より(中止となりました)
■会 場 大東会館 港区北青山三の三の二七
■参加費 無料(但し、懇親会費千円、学生は無料)
■幹 事 藤本隆之/福永武/細見祐介/大山晋吾