大東会館 過去の活動の記録

大東会館のホームページ上において行つてゐた案内・告知を掲載

武士道研究会御案内(五月の研究例会流会のお知らせ)

「武士道研究会」通信【楠公祭の意義について】 
太平記』には、湊川楠公と共に討死された弟君正季公の最期の言葉が、かう記されてゐる。「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトゾ存ジ候ヘ」と。
これ、世に言ふ「七生報国」の典拠であるが、楠公室町時代に逆賊として長く歴史の片隅に追ひやられてゐた。それを史上に特筆されたのが『大日本史』編纂を志された水戸義公であり、義公は「嗚呼、忠臣楠子之墓」の碑を湊川に建て、楠公を天下第一の忠臣と称へられた。
後に幕末に至り、楠公忠死の精神は盛んに顕彰され、多くの志士達が楠公を敬仰した。吉田松陰先生も『留魂録』に「七たびも生かへりつゝ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや」と記され、七生報国楠公の魂が松陰先生の胸に蘇られた事が窺へる。
大東亜戦争末期に創案された人間魚雷には、楠公の旗印「菊水」が描かれ、またロケット特攻・桜花隊の出撃を戦友達は「非理法権天」の旗(楠公の旗印)を振って見送った。同隊の緒方襄命は、出撃三十分前、手帳にかう記されてゐる。「死するともなほ死するとも吾が魂よ永久にとどまり御国まもらせ」と。まさに七たび八たび生まれ変って帝を守り奉らむとする楠公精神が、民族の危機に際して蘇り来たったのである。
いや、この精神は戦後にも脈々と流れてゐる。かの占領憲法に身をぶつけて自刃された三島由紀夫氏が、その折り頭に巻いてゐた鉢巻には「七生報国」と記されてゐた。まさに此の時、氏の胸裏に存したものは大楠公七生報国の精神であった。
そして、この精神は、現代を生きる我々一人一人の内に眠る大和魂と言ってよからう。
ここに志を同じうする人々集ひて、大楠公を仰ぎ、楠公祭を斎行し、自らの内なる大和魂を奮ひ起こして参り度く存じます。


五月の研究例会《流会》のお知らせ
今、徐々に新型インフルエンザが流行しつつあります。月末には終息するものとし、例会を二十九日に設定致しましたが、大事をとって今月は流会とし、上楠公祭は、七月初旬(新暦に換算すると楠公の討死は七月中旬)に変更させて戴きたく存じます。
まさに「変の至るや知るべからず、豈に怠るべけんや」です。流会は、一見情け無き事のやうですが、馮河の勇は真勇にあらず、武士道は「死ぬ事とみつけたり」と言ふも、命は無駄に落とすべきにあらず、御一人の御為にこそ捧ぐべきとご理解戴きたく存じます。