「武士道研究会」第二十八回例会(七月二十三日《金》)の御案内
■「松陰先生恋闕の和歌」 幹事・大山晋吾
嘉永六年十月一日に入京した松陰先生は、梁川星巌より次の如き孝明天皇の御姿を聞く。「墨夷(ペリー)来航已来、毎朝寅の刻(午前四時)より斎戒ましまし、敵国摂伏、万民安穏、御祈願あそばされ、かつ供御(御食事)も両度の外召し上がられず候」と。▼孝明天皇は迫り来る列強の侵犯を憂へられ、辰の刻の御拝を寅の刻に早められ、三度のお食事も二度にせられて、敵国摂伏・万民安穏を神に祈られたのである。▼松陰先生は感激し、翌日次の如く書き記された。「聞くならく、今上聖明の徳、天を敬ひ民を憐みたまふこと、至誠に発す。鶏鳴すなはち起きて親ら斎戒し、妖氛を掃ひて太平を致さんことを祈りたまふ」と。▼この松陰先生の感動は、安政六年正月の和歌に最もよく現れてゐよう。即ち、先生は、屠蘇を手にして次のやうに歌はれてゐる。「九重の 悩む御心思ほへば 手にとる屠蘇も 呑み得ざるなり」と。実に、松陰先生恋闕の至情籠る和歌と言へよう。
■菅直人氏の政治姿勢 発表・沼山光洋先生
本年四月二十三日(日本時間)、菅直人副総理(当時)は米国アーリントン国立墓地へ献花に赴いた。三月二十九日には岡田外相が同じく献花に赴いたが、これは所謂外交儀礼として、百歩譲って理解出来よう。通常、慣例として、総理、外務大臣、防衛大臣は、訪問先の国家功労者の祀られてゐる場所で敬意を払ふ。だが、米国アーリントン国立墓地に副総理が献花に赴いた例は、これまで余り耳にした事が無い。▼仮に、これが外交上の儀礼だとしたら、菅直人氏は献花の際に如何なる心持ちであったのか。アフガニスタン、イラク、湾岸戦争、そしてベトナム戦争、大東亜戦争を遂行した米国兵士に対し、どのやうな真心を捧げたのであらうか。そして、肝心なのは、この献花が米国の要請なのか、或いは菅氏の申請なのかといふ事である。▼本発表では、菅総理の政治姿勢を分析し、そこに見え隠れする欺瞞を浮き彫りにしてみたい。
■「士規七則」―君臣一体忠孝一致― 発表・大山晋吾
シナの道徳を概観するに、その最も重んずる徳は「孝」であらう。わが国では、これが「忠孝」となり、「孝」の上に「忠」がくる。では、なぜシナに於いて「忠」が重んぜられないのか。それは、やはり放伐・革命に原因があらう。国家の興亡が激しく王朝交替の繰り返しの中では、「忠」を第一の徳と説く事が困難になる。即ち「忠」が「孝」に繋がらないばかりか、「孝」の道に反する場合が出て来るのである。▼平重盛は、君に忠ならむと欲すれば親に孝ならず、親に孝ならむと欲すれば君に忠ならずと嘆いたと言はれる。だが、これは、裏より見れば、わが国に於いては、本来忠と孝が相反するはずのものでないから、かく嘆くのであって、逆に忠孝が一致した国柄である事を示す
ものと言へよう。現に、わが国に革命は未だ嘗て存在しない。▼では、シナに於いてはどうであらうか。かの国で聖人君子と仰がれる孔子は、『論語』に次の如く述べてゐる。「(武王は)未だ善を尽さず」と。孔子は、周礼を尊び、周王朝の文明の復興を理想としたが、そのまさに周の武王こそは主君殷の紂王を討ち、君臣の礼節を覆してしまった張本人であって、孔子はこれを嘆いてゐるのである。この嘆きは、まさに絶望的ものであった。現にシナに於いては、その後も放伐・革命の連続であって、自らの主君と父の主君とが異なり、主君への忠が親への孝と繋がらない。親への孝と主君への忠が対立する。ここに孝を第一とするシナに於いては、自然と忠の道を敬遠せざるを得なくなるわけである。「士規七則」の「君臣一体、忠孝一致、只だわが国を然りとなす」とは、右の如き内容を松陰先生が一言で見事に表現されたものと言へよう。
■フライングタイガーズ―戦後四十数年を経て米国自体が認めた事実― 発表・日下晋太郎氏
かって米国は、真珠湾攻撃の随分以前より、シナに軍事物資の援助をし、徒に支那事変を長期化させ、疲弊する日本軍を苦しめ続けた。更に昭和十六年に入っては、日米航空戦の戦士と戦闘機を「フライングタイガーズ」として南支に送り込んでゐる。▼これまで米国政府は、彼らをあくまで米国中央飛行機製造会社の社員、民間義勇軍としてきたが、戦後四十数年を経て、約百人の生存者達の請願もあり、一九九一(平成三)年、遂に正規の米国軍人であった事を公に認めたのであった。〈平成三年七月八日付・「夕刊讀賣新聞」第二二面〉▼ここに於いて、米国は中立国の立場にありながらその義務を果たさず、支那事変解決に苦慮する日本を更に窮地に追ひ込むべく、シナの背後より軍需物資は言ふに及ばず、戦士・戦闘機まで投入してゐた事が明白になったのである。▼未だに彼の国は日本の宣戦布告が一時間余遅れた事を問題とし、真珠湾攻撃が騙し討ちであり、日本側に非ありとして、原子爆弾投下まで正当化しようとする。だが、実に米国は、真珠湾攻撃の数ヶ月前より既に日本に宣戦無き攻撃を開始してゐたのであって、わが国の宣戦布告が遅れた事を問題に出来るやうな立場にはなく、また原爆投下を正当化する彼の言分もここに崩れ去るほか無いのである。いや、原爆投下は非戦闘員への無差別大量虐殺であり、国際法といふルール自体への違反であって論外と言ふほかない。
(大山晋吾筆「終戦五十年目の悲劇と立証された真実」〈『不二』平成七年十二月号〉より要約)
■会場 大東会館 港区北青山三の三の二七
■日時 七月二十三日(金)午後六時半
■次回例会 八月二十七日(金)午後六時半より
◎吉田松陰先生『松下村塾の記』―君臣の義と華夷の弁―
◎(文献紹介)ロバート・A・シオボールド少将著『真珠湾の審判』
■会費 千円(懇親会費、但し学生は無料)
■幹事 藤本隆之/福永武/細見祐介/大山晋吾