大東会館 過去の活動の記録

大東会館のホームページ上において行つてゐた案内・告知を掲載

武士道研究会第三十五回例会(ニ月二十四日《木》)ご案内

■開戦七十年関係資・史料紹介「日本軍に感謝した毛沢東主席」日下晋太郎
昭和三十九年、日本社会党訪中団団長として中共を訪問した佐々木更三代議士は、七月十日、北京の人民大会堂毛沢東主席と会見を行った。その時の会見の記録が社会主義研究所から同年九月十日発行された『社会主義の理論と実践』第五十四号に掲載されてゐるので、下に掲げたい。

佐々木 今日、毛主席からひじょうに寛大なお話をうかがいました。過去、日本の軍国主義が中国を侵略してみなさんに大へんご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思います。
毛主席 なにもあやまることはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。おかげで、中国人民は権力を奪取しました。日本の皇軍なしには、わたしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。この点で、わたしとあなたの間には、意見の相違と矛盾がありますね。

▼この文献は、今から三十年程前、筆者の大学時代、ゼミで坂本夏男先生から教はったものである。坂本教授は、蘆溝橋事件研究の権威であったが、よくチャールズ・カラン・タンシル博士の著書『戦争への裏戸』の「ソ連が日本とチャイナの戦争を促した。(Soviet Russia Promotes a War between China and Japan)一九三七年夏に南京と東京よりアメリ国務省に届いた外交文書によれば、チャイナの多くの官憲が日本とチャイナの戦闘を熱望してゐたことが明らかである。(It is apparent from the diplomatic correspondence that came to the Department of State from Nanking and Tokyo that in the summer of 1937 many Chinese officials were spoiling for a fight between Japan and China)日本ではなく、チャイナが戦争への準備をしてゐた(China,and not Japan, was ready for the outbreak of hostilities )」といふ言葉を引用して、シナ事変当時、戦争を欲してゐたのは、日本ではなくチャイナであったと説かれてゐた。▼シナ事変は言ふまでも無く昭和十二年七月の蘆溝橋事件に始まるが、これは劉少奇ソ連の指導下にあったシナ共産勢力が、蒋介石軍から日本軍への発砲と見せかけて、日本を挑発した謀略に端を発するものとも言はれてゐる。日本軍を深くシナに誘ひ込んで、蒋介石軍と長期戦を戦はせ、疲弊させたところに背後から劉少奇毛沢東等の率ゐる共産軍が漁夫の利を得ようとしたと考へれば、右の文献や坂本先生の説は、はまさに納得のいくところと言へよう。▼これも、二十年以上前の話であるが、知人の故塩田喬氏より、蘆溝橋事件劉少奇が画策したものと記した革命教科書『戦士政治課本』が、中共国立博物館の地下収蔵庫に一冊だけ保管されてゐる話を聞いた事がある。▼実は、塩田氏の友人葛西純一氏が、満州終戦を迎へ、シナに迷惑をかけて申し訳ない気持ちから、その後、中共軍に入り、暫く将校として従軍してゐると、右革命教科書が配られ、革命家たるものは、かの劉少奇同志が、謀をめぐらして七・七事変(蘆溝橋事件)を成功させたやうに策略を用いなければならない旨が記されてゐたといふ。それを読んでシナに騙されてゐた事を悟った葛西氏は中共軍を離れ、その革命教科書を携へて日本に帰国した。その後、葛西氏は、名著『新資料 蘆溝橋事件』(成祥出版社、昭和四十九年発行)を著し、右の教科書についても大きくその序に記されてゐる。▼塩田氏はこれを読み、葛西氏と会ってその教科書を見せて欲しいと頼んだ。葛西氏は今或る銀行の貸金庫に保管してゐるので後日お見せする事を約して別れたといふ。だが、その直後、葛西氏は謎の変死を遂げて仕舞った。これにより、革命教科書の行方は永遠に不明となってしまったが、塩田氏は、時の周恩来政権が放った刺客によるものだと言ひ、あと少しのところであったのにと、何とも残念さうに話されてゐた。


吉田松陰先生筆「保建大記を詠む」―松陰先生の三種の神器観―幹事・大山晋吾


■日時 二月二十四日(木)午後七時より
■会 場 大東会館 港区北青山3−3−27
■幹事 藤本隆之/福永武/細見祐介/大山晋吾
■会費 千円(内訳、資料代・通信費・会場費―五百円/懇親会費―五百円)、但し、学生は無料
※なほ、懇親会に於ける、酒・肴のご提供は、大いに歓迎致します。